JAリーダーインタビュー
兵庫県JA兵庫みらい 代表理事組合長 高橋秀さん
- 兵庫県 JA兵庫みらい
- 2025年10月

「なんとかせなあかん」
思いきれば 結果がついてくる
持ち前の負けん気と行動力で現場の士気を上げた。新たなチャレンジとしてアスパラガスの産地化も実現。
スピード感を持って即実行、先手必勝の精神で進む。
後輩と競うように現場を回っていた
─出身地の加西市は昔から稲作が盛んだそうですね。
播磨平野のほぼ中央に位置していて、気候も穏やかですから、稲作に向いていると思います。わが家は北条町の高室という地区にあり、昔はいちめんの田園地帯でした。ぼくが小さい頃は機械がなかったので、田んぼはすべて手作業。田植えの時期に、同じ市内にあるおふくろの実家に遊びに行くと、但馬の方から早乙女が手伝いに来ていて、かわいがってもらいましたよ。でも、同じ兵庫県でも但馬と播磨とでは歴史も風土も異なるから、言葉がぜんぜん違うんです。失礼な話ですが、「外国人のおばちゃん」なんて呼んでいたのを思い出します。
ぼくは早生まれで体が小さいほうだったせいか、まだ幼稚園児だった頃から「先手必勝」みたいな意識がありました。体格差で負けないようにね。体の大きい子や年上の相手には、かならず自分からアプローチしていました。最初の「とっかかり」がだいじ。そこで距離を縮め、対等な関係を築くのが得意のようです。今でもそれは変わりません。
地元で高校まで過ごし、卒業後は京都の仏教系大学の経済学部に進学しました。学内には「古美術研究会」、通称「古美研」というクラブがあってね。きれいで優しそうな上級生に勧誘されて、気がついたら入部していました(笑)。実家がお寺だという学生もたくさんいたので、みんなで全国のお寺を見に行ったりして、ほんとうに楽しかった。年に三回、『宝相華』という本の発行にも携わりました。授業がない日でも、古美研には毎日顔を出していましたね。自由気ままな四年間でした。
住まいは東山区にある東福寺の近くの下宿で、そこからすぐの場所にある光明院という塔頭寺院によく通っていました。昭和の名作庭家、重森三玲の手による枯山水の庭園があるのですが、ぬれ縁に座って眺めていると、負けん気の強いぼくでも自然と心が落ち着いて、穏やかな気持ちになってくる。昼ご飯を食べたあと昼寝をしたり、たまに掃除を手伝ったりして過ごしました。ぜいたくな時間でしたね。卒業後、地元に戻って加西市農協(当時)に入組しました。
─新人時代はどんな仕事をしていましたか。
下里支所に配属され、経済担当になりました。最初の仕事は配達です。当時はパレットやフォークリフトがなかったから、倉庫の天井まで積み上がった肥料や農薬をほぼ人力でトラックに積み込むんです。仕事のあとの一杯は、格別にうまかったですよ (笑)。それくらい、しんどかった。三年後に地元の北条支店に異動になったとき、支店長から「なにかしたい仕事はあるか」と聞かれ、「今の仕事は嫌です」ときっぱり答えましたから。
それで金融共済部門に配属され、渉外担当になりました。ただ、この支店はあまり契約がとれておらず、成績はよくなかった。「なんとかせなあかん」と思いましたね。行動しなければ、契約なんてとれません。組合員の家族構成を調べ、どんな共済を提案すればいいかをよく研究し、こまめに訪問するようにしました。後輩職員にもアドバイスして、いっしょになって競うように現場を回っていましたね。そうしたらいつの間にか、管内でトップクラスの成績を上げる支店になっていたのです。
─士気の向上が、職場改革につながったのですね。
動けば契約がとれる。とれたらうれしいから、さらに動く。若い職員ががんばる支店は元気が出るんです。あまりやる気のなかった人も、年長の職員も、つられてがんばる。そういう好循環が成功パターン。職場を元気にすることを、ぼくはいつも意識してきました。
当時と違い、今は数を当たることよりも、相手が納得するまでていねいに話をし、理解を得ることが求められる時代になってきていますね。ただ、農協はやはり「出向いてなんぼ」というのがあると思うんです。何度も出向くことで、今の時代から取り残されそうな人たちの最後のとりでになるという役割がある。スマートさだけでなく、時代と逆行するような泥臭さも併せ持つことがだいじです。それを貫けば、トップに立てることだってあると思いますよ。

いいと思ったら即実行 迷ったら、とにかくやる
─農業部門での課題はなんですか。
「もうける商売」を考えることです。その一つが、アスパラガスの産地化です。JA兵庫みらいの農産物販売高は約四十億円で、うち三十億円以上を主食米と酒造好適米の『山田錦』が占めています。いま米価は上昇していますが、ぼくが営農経済部長に就任した平成二十八年当時は安かった。高齢化で労働力も減っていくなか、水稲中心の農業経営にたいし不安が広がっていたのです。
新たなチャレンジとしてアスパラガスを選んだのは、近畿エリアには大きな産地がないこと、栽培期間が長く市場価格も安定していることなどが決め手です。最初の一年間は営農経済部の職員を中心に、本支店の信用共済部門の応援も得ながら、オールJAで試験栽培に取り組みました。「これはいいものができる」と確信したのちは、栽培方法や出荷販売体制、普及方法なども検討し、安定出荷と販売拡大を図っています。三十年に部会もできました。今はまだ農家の収益の柱にはなっていませんが、部会員からは「単価が高く、経営複合化に適している」と言われています。
JA主導で産地化を進めたことが評価され、令和二年にJA営農指導実践全国大会で審査員特別賞を受賞しました。関わった職員はみんな生き生きしていましたね。それを見て、「営農経済部に行きたい」と希望する職員が急に増えましたよ。
まだ表に出すことはできませんが、ぼくは他にも、もうける商売の構想を練りあげているところです。職員のみなさんにもぜひアイデアを出してほしいですね。

─職員には、日ごろどんな言葉をかけていますか。
ぼくは三十年以上金融共済部門にいましたから、五十七歳で営農経済部長に任命されたときは、退職も頭をよぎりました。踏みとどまったのは、「なにをやってもいい」と言われたからです。だから、思いきってアスパラガスの産地化に挑戦できました。
「いいと思ったら即実行。あかんかったら即やめる。迷ったら、とにかくやる」。昨年組合長に就任してからは、いつも職員にそう言っています。同時に、自分にも言い聞かせているんです。先手必勝。先の見えない時代ゆえ、スピード感を持って行動しなければと。ぶれずに、勇気を持って進んでいきたいと思います。

文=成見智子 写真=松尾 純 写真提供=JA兵庫みらい
詳細情報
たかはし・すぐる/昭和三十四年生まれ、兵庫県加西市出身。五十六年龍谷大学を卒業後、当時の加西市農協へ入組。JA兵庫みらいに合併後、共済部長、総合企画室長、営農経済部長などを経て平成三十年金融共済担当常務、令和三年代表理事専務、六年に代表理事組合長に就任し、現在に至る。
JA兵庫みらい
平成十四年、兵庫県北播地区の三JAが合併して誕生。加西市、小野市、三木市が管内。米『ヒノヒカリ』のほか、酒造好適米『山田錦』、トマト、黒大豆、ブドウなどが特産で、アスパラガスの産地化を進めている。





