JAリーダーインタビュー

鳥取県JA鳥取いなば 代表理事組合長 清水雄作さん

  • 鳥取県 JA鳥取いなば
  • 2025年8月

農政・組織の変化と向き合ってきた農協人生

中山間地で育ち家族総出の米作りと入組後の経験を糧に、農政の転換点を迎えるたびに課題を解決してきた。
それらがJA合併後も、生産者をサポートする底力になっている。

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「日本昔ばなし」のような地域で家と農業を守る

─白い砂丘に青い海、緑豊かな山々。鳥取空港に着陸する機内から見渡す管内は、色彩豊かな風景が印象的ですね。

 JA管内では、地形や地域の特性を生かした多彩な農畜産物が生産されています。平成二十八年には「鳥取砂丘らっきょう・ふくべ砂丘らっきょう」が、三十年には「こおげ花御所柿」が地理的表示(GI)保護制度に登録されました。
 わたしの家は、兵庫県境に接する岩美町という所にあります。蒲生峠の麓に位置する中山間地で、わたしが子どもの頃はいちめんに田畑が広がっていました。「日本昔ばなし」を絵に描いたような場所でしたね。わが家もかやぶき屋根の家で、農耕用のウシといっしょに暮らしていました。
 農作業はすべて手作業だった時代です。田植えは家族や親戚が総出でやりました。苗をまっすぐ植えるため、昔は木製の定規を使っていました。いつの頃からか縄に代わりましたが、定間隔で植えられるように赤い印がついていたのを覚えています。田植え前には、ちょっとした楽しみもありました。鍬で田起こしをした後、歯車の付いた台車のような機械をウシに引かせて土を細かく砕くのですが、父がよくその上に乗せてくれたんです。
 いつも全力で働いていた父は、わたしが所帯を持ったら引退する、とよく言っていました。父は、小学四年のときにわたしにとっての祖父を亡くし、長男としてずっと家を支えてきた苦労があったのでしょう。
 それが頭の隅にあったせいか、わたしはこれまでの人生で、いっぺんも地元から外に出たことがないんです。それは自慢であると同時に、「失敗したな」と思うことでもあるんですよ(笑)。いちばん長く家を空けたのは、鳥取大学を出て岩美町農協に入組後、神奈川県の平塚市で四十日ほど研修を受けたときだけですから。

─岩美町農協の新人職員として、最初の仕事はなんでしたか。

 経済課に配属され、営農資材を担当しました。家畜の餌を農家に配達したり、予約注文を取って配送の手配をしたりといった仕事です。田んぼのことしか知らなかったわたしにとって、畜産の現場は新鮮でしたね。
 組合員との対話を積み重ねていくと、同じものを生産していても要望や悩みはさまざまで、経営状況もかなり違うことがよくわかりました。当時の岩美町農協には「集落担当制度」というのがありました。営農だけでなく、信用や共済担当の職員にも、担当する集落が割り当てられ、全員が農の現場に関わる仕組みだったのです。
 担当集落は毎年替わりますから地域ごとの事情もわかるし、どこで、だれが、どんなものを作っているのか、すべて頭に入る。地域密着度は上がりますね。楽しいことばかりではありませんでしたが、組合員に成長させてもらいました。鳥取弁で言うなら、「おせ(大人)にしてもらった」という気持ちです。

農業も仕事も、一生懸命考え工夫する

─集落担当として、おもにどんな業務に当たっていたのですか。

 昭和四十年代半ばから米の生産調整が始まっていましたから、その現場対応が中心でした。山間地など不便な場所から稲作をやめていきましたが、何年かすると生産性のよい田んぼばかりが残るわけです。
 そのなかで転作田の割り当てやルール作りをしなければならない。稲作を続けたいから協力したくないという人もいました。同じ百姓として気持ちがわかるだけに、つらかったですね。
 奨励金や補償の条件変更、自主流通米制度の発足、政府が米を買い取る食糧管理制度の廃止など、米をめぐる施策はどんどん変わっていきました。そのたびに、産地の生産体制をどうするか、いかなる技術が必要か、どんな品種を作ればいいかなど、知恵を絞って対応しました。
 現在、鳥取県の奨励品種は県オリジナル米の「星空舞」ですが、ここに至るまでに、いろいろな品種が出ては消えました。わたしの農協人生は、変化し続ける農政の歩みとともにあったなと感じています。

─平成七年、十四JAが合併してJA鳥取いなばが誕生。十六年には大規模な支店再編があり、これも大きな「変化」ですね。

 合併直後、わたしは経理課に配属されました。旧農協はそれぞれ独自のやり方がありましたし、会計ルールも違うので、統合していくのは至難の業でしたね。その後、金融企画課で支店再編に携わりました。八十三ある支店を二十に統廃合する大きな再編でしたから、組合員に不便をかけるだけでなく、それにより事業の利用が縮小するおそれがありました。農家のアパート経営などの資産運用や、圃場整備・水路整備などへの資金需要が一段落した時期でもあり、融資部門の強化は急務だと感じたのです。平成二十年、わたしは金融部長としてローンセンター設立に携わりました。いまではこれが事業の柱の一つになっています。
 それをさらに拡充するかたちで今年新設したのが「ライフデザインプラザ」です。組合員や地域住民の個々のライフプランに寄り添い、幅広い相談にワンストップ(共済、ローンなど幾多のサービスをひとつの窓口で完結する仕組み)で対応・提案できる拠点として機能することをめざしています。

─ビジネスモデルの変革が必要だということですね。

 JAは中小の農家をしっかりサポートし、協同組合の精神で、みんなの利益のために汗を流す。その役割は今後も変わりません。ですが、農家やその生産をサポートし続けるためには、JAの経営そのものを持続可能なものにするための工夫も必要です。ライフデザインプラザは、いわばその象徴です。信用・共済事業を広く地域のために展開し、利用を増やすことでJAの経営基盤を強化していく。そのために、総合事業ならではの専門性や、それに基づく提案力を強め、地域に発信していかなければなりません。
 職員のみなさんには、こうしたことを意識しながら、日々携わる業務について深く学ぶ努力を続けてほしいですね。農業でなにより重要なのは、一生懸命やることです。地球温暖化や気候変動が進むなか、いままでと同じことをただやるのではなく、環境・気候に合う特産品を一作一作工夫して消費者に届け、社会のニーズに応えていくべき時代になるでしょう。
 JAの仕事もそれと同じです。目の前の業務にどんな意味があるのか、どうしたら組合員の役に立つのか、一つ一つ一生懸命考えて実行すれば、おのずと成果が出てきます。そうなれば、仕事はもっとおもしろくなると思いますよ。

文=成見智子 写真=松尾 純 写真提供=JA鳥取いなば

詳細情報

しみず・ゆうさく/昭和三十二年生まれ、岩美町出身。五十五年鳥取大学を卒業後、当時の岩美町農協へ入組。合併後、金融部長、平成二十二年参事、二十九年金融共済担当代表理事常務などを経て、令和五年代表理事組合長に就任し、現在に至る。

JA鳥取いなば

平成七年、鳥取県東部の十四JAが合併して誕生。鳥取市、岩美町、若桜町、智頭町、八頭町が管内。米のほかナシ、カキ、ラッキョウなどが特産。支店行動計画の実践に力を入れ、今年、合併三十周年を迎える。

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