JAリーダーインタビュー

神奈川県JA神奈川つくい 代表理事組合長 中里州克さん

  • 神奈川県 JA神奈川つくい
  • 2025年4月

必要とされる幸せをかみしめて

若くして会社を経営し、町議会議員も務めた。酸いも甘いも知るリーダーの人づくりの核心とは。

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黙して息子の帰りを待った父

─相模原市といえばリニア中央新幹線が話題ですが、市北西部のJA管内は、丘陵地が連なる自然豊かな地域ですね。

 管内の大半は中山間地域です。わたしが生まれ育った旧・城山町の相模川西岸地域もそうですが、広い農地が少なく、段々畑になっている所もあります。
 わが家の生業の中心は養豚で、田んぼもやっていました。たしか小学四年生の頃だったと思いますが、ある日学校から帰ると、親父に豚舎に連れていかれたんです。「毎日掃除しなさい」と。遊びたい盛りだったし、きつい仕事だったから、嫌で嫌でね。でも、家族が食べていくためにはやむをえない。ここで逃げたら一生逃げることになると思い、毎日欠かさず続けました。
 叱られた記憶はほとんどありません。でも親父は学校の先生に、「うちの子が言うことを聞かなかったら殴っていい」と言っていたそうです。その理由は、「家畜じゃないんだから、言葉で理解できるはずだ。それでもわからないなら手を使うしかない」と。それを伝え聞いたとき、子ども心に親父の信頼を感じました。
 わたしが中学に上がる頃、親父はガソリンスタンドを始めました。経営が軌道に乗り、そちらが本業になったので、高校卒業後は自動車整備会社で四年間修業したのち家業に入りました。個人事業主ですから、スタンドの運営や車両の整備のほか、保険代理店として営業もしましたし、会計などの事務作業もすべて自分でする。合間に田んぼの仕事をしていましたが、土に触れると心が休まりますね。現在も続けています。
 そういえば、十代の頃からバイクや自動車のレースに出場していました。入賞トロフィーや写真を部屋に飾っていましたが、自分の子どもが生まれたときに片づけました。興味を持たないようにね。というのも、わたしがレースに出た日、親父がいつも風呂でずっと外を見ながら帰りを待っていたそうなんです。長風呂の理由をおふくろが聞いても、口ではなにも答えなかったと。わたしは親父みたいな心配をしたくないんです。勝手でしょう(笑)。

─家族思いのお父様だったのですね。

 優しい人でしたが、一本気なところがあってね。自分で決めたことは、結果が出るまでやり通す。妥協しないんです。太平洋戦争で召集され、敗戦後はシベリアに抑留されて厳しい経験をしたからでしょう。地元で町議会議員も務めていましたが、いろいろな人の声を聞きつつ自分の信念を貫くわけですから苦労があったと思います。だから、自分はぜったい政治はやるまいと思っていたんですけどね……。三十七歳で親父を亡くし、その翌年、自ら政治の世界に飛び込みました。
 いざ町議会議員選挙に出馬してみると、「三十代の若造になにができるんだ」という見方が大半で、当初はあまり協力を得られませんでした。だからひたすら選挙区を回り、頭を下げ続けるしかなかった。すると少しずつ応援の声が大きくなり、地元も盛り上がってきて当選できたのです。わたしはいま、できるかぎり組合員の所へ足を運ぶよう、しつこいくらい職員に言っていますが、それはこのときの経験から得た学びなのです。

厳しい意見を言う人に自分から近づく

─約十年間町議会議員を務めたのち、JAの非常勤理事に推され、令和二年に代表理事組合長に選出されました。なぜ、JAで仕事をしようと決めたのですか。

 じつは四十九歳のとき、県議会議員へのステップアップを図って立候補したのですが、選挙運動の期間が短すぎたこともあり、落選したのです。どん底を味わいましたが、同時に人の温かさを身にしみて感じましたね。非常勤理事になったとき、地域の人に精いっぱい恩返しをしようと思いました。中山間地域では、ヤマビルの被害や鳥獣害、耕作放棄地の増加が課題です。放置すれば、害虫や野生動物がますます殖えて居住や営農ができなくなり、悪循環に陥る。行政と連携し、駆除や防除、農地のあっせんなどに取り組んできました。
 非常勤理事に就任してから三年で組合長に選ばれたので、まわりもびっくりしていました。でも、重圧を感じるよりも、期待に応えたいという気持ちのほうが強かったですね。人から必要とされるうちは幸せ。それは議員時代から変わりません。ただ、コロナ禍での就任でしたから、組合員と会う機会が少なくてね。それをなんとか取り返そうと思っているんです。

─どのように取り返そうとしていますか。

 やはり、対話です。まだまだ足りません。厳しい意見を言う組合員がいますが、農協のことを心配しているんです。だから、そういう人にほど、近づいていかなければならない。スタンドを経営していたときにも経験しました。サービスに注文をつけてくる方ほど、ずっと通ってきてくれるんです。
職員のみなさんには、いろいろな人と直接会って話し、多様な意見を吸収してもらいたいですね。そうすることで、組合員の参加意識も高めていきたい。
 農畜産物直売所の「あぐりんずつくい」では、一昨年に出荷者組合が発足しました。人口減少と高齢化が進むなか、「買い物難民」を増やさないためにも、組合員自身が自分たちの売り場をつくるサポートができたらと思います。管内の四つの商工会と協定を結んで農産物を商店で委託販売したり、コンビニとコラボ商品を開発したりと、地域内での連携も深めてきました。農協が起点となり、今後は観光協会など、地域のすべての団体を巻き込んで農商工連携を進めていくつもりです。

─これから、どういう組織づくりをしていきますか。

 わたしは武田信玄の国づくりの理念とされる「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉を信条にしています。なにより「人」が重要だということです。だれかに指示されるのではなく、「自分が経営者だ」というくらいの意識で主体的に仕事をする職員を一人でも多く育てたいですね。
 車にたとえるなら、個人事業主は、右にハンドルを切ればぐっと右に曲がる。でも大きな組織は、なかなか曲がれないんです。そのタイムラグを埋めるため、人を育て、モチベーションを高めなければなりません。そこで職員の満足度調査を実施して職場環境の改善に努めています。一生懸命やった人をきちんと評価するため、給与にも少しメリハリをつけました。すると、成績上位者が変動するようになった。職員同士が切磋琢磨することで、全体の底上げができれば成功だと思います。組合員の営農と生活を守り、持続可能な経営基盤を築いて次世代に「つなぐ」こと。それが自分の使命です。

文=成見智子 写真=菊地 菫(家の光写真部) 写真提供=JA神奈川つくい

詳細情報

なかざと・くにかつ/昭和二十八年生まれ、相模原市(旧・城山町)出身。神奈川県立津久井高等学校卒業。自動車整備会社に勤務後、ガソリンスタンド経営に従事。三十八歳から約十年間、町議会議員を務める。平成二十九年JA神奈川つくい(当時JA津久井郡)非常勤理事、令和二年代表理事組合長に就任し現在に至る。一・六ヘクタールで稲作経営。

JA神奈川つくい

昭和三十四年、十一農協と一連合会が合併し、現在のJA組織の前身となる津久井郡農業協同組合が誕生。平成三十年JA神奈川つくいに名称変更。豊かな森林や美しい湖など、自然環境に恵まれていて、キクイモやユズなどの生産が盛ん。大粒で甘みが強い津久井在来ダイズの生産にも力を入れている。

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