大地のおくりもの
ゴーヤー
- 長崎県 JA島原雲仙東部ゴーヤ部会(長崎県南島原市)
- 2025年9月

色の濃さと棚もちのよさが自慢
ゴーヤー
雲仙普賢岳の噴火災害から、三十四年。
復興を機に始まったゴーヤー栽培は高品質を誇る産地へと成長しています。
長崎県の島原半島は、食材の宝庫。雲仙普賢岳の火山活動がもたらした肥沃な土壌と、豊富な湧水、温暖な気候を強みに、多彩な農畜産物が育まれてきた。その一つが、ゴーヤーである。
「東京の市場に行くと、色が濃くて、棚もちがいいと言われるんですよ。われわれのゴーヤーは、一週間たっても色が変わらない、と喜ばれています」
そう話して胸を張るのは、JA島原雲仙「東部ゴーヤ部会」部会長の松島修吾さん(71)です。
松島さんの圃場は島原半島の南側、南島原市の海を見下ろす丘陵地にある。海の向こうに見えるのは熊本県。反対方向を見上げれば、雲仙普賢岳がそびえている。
市内でゴーヤー栽培が始まったのは、三十年ほど前のこと。きっかけの一つとなったのは、あの平成三年の雲仙普賢岳の噴火災害だった。
大量の火山灰が連日降り注いで、農作物は甚大な被害に遭った。松島さんも葉タバコを作っていたが、露地栽培の継続を断念。国や自治体の助成を受けてハウスを建て、施設栽培での経営再建を図った。
「最初に作ったのはハクサイ。次がスイカで、そのあと導入したのがゴーヤーでした。当時は産地も少なくて、単価がよかった。メロンより高いときもありましたからね。栽培法が比較的、簡単という点も魅力でした」
と、松島さんは振り返る。

あえて人の手でしっかり受粉
だが、時代は変わった。温暖化の影響もあるのだろう。
もともとは南国の野菜だったゴーヤーの産地が、関東方面にまで広がっている。
当初は我流で作っていたと話す松島さんだが、現在では「いかに市場や消費者から、選ばれる品物を作るか」を、つねに意識して栽培しているという。
当地での定植は、まだ寒い二月に始まる。ハウス内を室温二八~三〇度に管理しながら、苗を育てていく。そして、四月中旬から収穫・出荷を開始する。
六月いっぱいでいったん出荷を終えたら、土壌消毒と土づくりをして、七月末にふたたび定植する。八月中旬から十一月末まで収穫・出荷をしていく。
七月の一か月間、作業を休む理由を尋ねると、真夏は市場にゴーヤーがたくさん出回るうえ、室内が暑くなりすぎて、作物の質が落ちるためだと教えてくれた。

一方、品質を高めるために、こだわっているのは、人の手で受粉させること。雄花を摘み、雌花に一つ一つ、手作業で花粉を付けていくのだ。
「自然でも受粉するんですが、人の手でしっかりと受粉させることで、品質がよくなるんです。変形果が少なくなるし、出荷後の棚もちがいいのもそのおかげです。ただし、作業は毎日ですけん、おおごとですよ(笑)」
三十アールを営む松島さん。受粉作業だけで、毎日二時間かかるという。東部ゴーヤ部会の四十人ほどいる部会員も全員、その手間を惜しまずに作業しているそうだ。
日々の作業が違いを生み出す
収穫や受粉と同時に、つるの誘引作業もほぼ毎日する。わき芽を取りながら、葉と葉が重ならないようつるを誘引。葉や実に日光を十分に当てることで、色の濃いゴーヤーが育つのだ。
さらに小さな果実の段階から、曲がっているものには「スマート」と呼ばれるプラスチックの整形具を装着。まっすぐなゴーヤーに仕上げていく。
夏が近づくと、ハウス内は室温四〇度にもなる。作業が過酷になるだけでなく、高温障害のおそれもあるため、気象情報をチェックしながら、ハウスの開け閉めを、こまめにすることもたいせつだ。

また、「最初が肝心」と話す松島さん。長年、施設栽培を続けてきた圃場は、連作障害のリスクもはらむ。定植前にしっかりと土壌消毒をして、土壌分析もしながら、必要な成分を補っていくという。
そのほかにも、害虫対策、台風などの天災と、収穫までに越えなければならないハードルは多い。
「質のよいゴーヤーを作り続けるのは難しい。だからこそ、最後までミスなくできて、きれいなゴーヤーが実ったときは、うれしいですよ」
と、ほほ笑む松島さん。
「あとは、ブレのない品物を出すこと。できるだけそろった品物を出すよう、部会でもつねに呼びかけています。悪いものを出せば、信用はすぐになくなりますからね」
積み上げてきた信用を、守り続けるために。今日も雲仙普賢岳の麓で、ゴーヤーの生長を見つめ続けている。

文=茂島信一 写真=下曽山弓子






