JAリーダーインタビュー

神奈川県JAあつぎ 代表理事組合長 大矢和人さん

  • 神奈川県 JAあつぎ
  • 2025年11月

何事もやり抜けば
怖いものがなくなる

人との「縁」をたいせつに、初めてづくしの部署で仕事に邁進してきた。
都市型農協を率いる今、集めたいのは「信頼ときずな」。

カテゴリ

掛け持ちをしながら仕事に明け暮れた

─厚木市に隣接した清川村の出身だそうですね。

 村全体が丹沢大山国定公園と神奈川県立丹沢大山自然公園の区域に指定され、「全国水の郷百選」にも選出されるなど、自然豊かな地域です。小さい頃から、近所の子どもたちと野山を駆けまわっていました。
 親父は養鶏をやっていて、わたしも手伝いをしました。子どもに興味を持たせるためだったのか、親父はときどき実験のようなことをして見せてくれましたね。たとえば、ニワトリに青い水を与えてみる。すると、その卵の黄身のまわりに青い輪っかが一つできるんです。もう一日与えると、その内側にまた新しい輪ができる。卵は中心部から外へ向かって肥大するんだなとわかるわけです。自然や生き物をとおして、日々リアルな学びがありました。
 体を動かすのが好きで、学校の部活には積極的に参加していました。高校では美術部とボクシング部を掛け持ちしていました。体育祭のときは、応援用の特大パネルをデザインしたり、旗に絵を描いたりして準備に追われ、当日は三年連続でリレーの第一走者です。球技大会でも、バスケットボール、サッカー、ソフトボールなど複数の競技に参加しました。「動けるだろ?」と友達に引っぱられ、何種目も試合に駆り出されるんです。
 卒業後は東京都内の大学に進学し、自宅から二時間近くかけて通いました。中学生の頃から、月に四冊ぐらい本を読んでいたので、通学時間はかっこうの読書タイムです。漫画も好きですよ。好きな作品は? と聞かれても、いっぱいありすぎて答えられないくらい(笑)。
「きみたちはこれから社会に出るにあたって、現場を含むいろいろな経験が必要だ」というゼミの先生のアドバイスで、在学中はアルバイトに明け暮れました。コンビニの店員、食品会社の冷凍倉庫係、ビル清掃員など、地元で現場仕事をたくさんしました。そうすると、いろんな「縁」ができるんです。卒業して地元の厚木市農協に入組してから、その縁はおおいに役立ちました。

─どのように役立ったのですか。

 小鮎支所に配属され、信用事業の外務係になりました。厚木市でアルバイトしていましたので、アルバイト先の従業員の方も地元の人です。仕事で利用者宅をまわると、顔見知りのことも多く、新規の方も紹介していただきました。
 小鮎支所には七年在籍しました。途中六か月間、県農協講習所に派遣していただきました。そのときのメンバーは三十六年を過ぎたいまも、仲間であり財産です。支所では、六年めに共済担当になったのですが、信用に配属されてきた新人職員の教育を命じられ、最後の二年間は信用と共済を掛け持ちしていました。その後本所に異動し、監査室、総務部人事課を経て総合企画部に着任したのですが、ここでも企画課長と管理課長という、二足のわらじを履くことになります。当時の担当役員から「できるだろう?」と言われ、「はい」と答えて決まりでした。

─学生時代から〝掛け持ち〟が多いのですね。たいへんだとは感じませんか。

 さすがにこのときは無茶だなと思いました(笑)。しかも人員が刷新され、ベテランの部下もいない。午前中は企画課、午後は管理課、という感じで重心を変えながら人を育てていきました。ちょうどその頃、JAでは本格的に教育文化活動がスタートし、わたしはその主幹も拝命しました。初めての部署で、初めての課を担いつつ、初めての担当をいただいたわけです。
 まず、自分の席の横に丸椅子を一つ置きました。食農教育や広報活動などの担当者が入れ代わり立ち代わり相談に来るからです。わたしは監査も経験しているので、他の課の職員が法令や規定について聞きに来ることもあり、日中は目が回るほど忙しい。夜は夜で、週三回は会食や飲み会に参加していましたね。「ラーメン食べに行きましょうよ!」と部下たちに誘われ、結局ラーメンではなくビールがメインになることもよくありましたよ。教育文化活動は、平成二十三年度の「家の光文化賞」受賞で実を結びました。ハードな日々でしたが、それを乗り越えたとき、もう仕事で「怖い」と思うことはなくなりましたね。

組合員、先人の教えから「気づき」を得る

─教育文化活動で得た学びを、組織運営にどう生かしていますか。

「JAは温故知新ですよね」。座談会で組合員が言ったそのひと言が、気づきを与えてくれました。原点に戻り、自分たちの存在意義を確認したうえで、その先をめざすべきだろうと。先人の言葉はだいじだと思います。カナダの協同組合活動家、アレクサンダー・レイドローは四十五年前、協同組合には「経済的目的」と「社会的目的」という二重の目的があると記しました。われわれ農協も、収益を得られなければ成り立ちません。それと同時に、農業を軸として地域に根ざした協同組合をめざさなければ存在意義はないということです。
 JAあつぎのような都市型農協では、経済部門で利益を上げることは難しく、「信用・共済の利益で赤字を補っている」という言われ方もします。けれどわたしは、それは補塡ではなく、本業である農業への資本投下であると考えています。それによって総合事業への信頼が担保され、組織全体の活力も上がると信じているのです。

─新規就農の支援もしているそうですね。

 厚木市、市農業委員会、JAが提携して、平成二十六年に「厚木市都市農業支援センター」が開設されました。これまでに八十人ほどが支援を受けて就農しています。年間一千万円以上売り上げる農家もいますよ。わたしは総合企画部のあと指導販売部も経験したので顔見知りの農家も多く、「JAにはお世話になったから、新しい特産物をいっしょに作りたい」と言ってくれる人もいる。それも縁であり、財産ですね。
 ファーマーズマーケット「夢未市」では、八十歳以上でも年間百万円以上売る方が少なくありません。出荷することが生きがいになっているようですね。地域の豊かさというのは、お金ではなく生きがいややりがいであると、わたしは思っています。社会と接点を持ち、人のために役立つことは健康にも寄与するでしょう。
 われわれが事業をとおして集めているのは、信頼ときずなだと思います。そのためには、「組合員のために」ではなく「組合員とともに」歩む姿勢がたいせつですね。組合員に寄り添い、信頼を重ねていくことが、大きな仕事につながるのです。農業を軸に地域づくりを進め、なくてはならない、地域インフラのような存在になる。それが、わたしが思い描く将来のJAの姿です。

文=成見智子 写真=福地大亮 写真提供=JAあつぎ

詳細情報

おおや・かずと/昭和三十八年生まれ、神奈川県清川村出身。六十一年東京経済大学を卒業後、厚木市農協へ入組。平成十七年総務部人事課長、二十年総合企画部企画課長兼管理課長、二十六年指導販売部長、令和元年総務部長などを経て令和三年専務理事、七年に代表理事組合長に就任。

JAあつぎ

昭和三十八年、厚木市内七農協が合併し厚木市農協が設立。昭和四十四年清川村農協と合併。神奈川県中央部に位置し、米「はるみ」のほか、トマト、ダイズなど野菜、畜産、果樹、花木、足柄茶などが特産。

ふれあいJA広場・
ローカルホッとナビ

本サイトは、全国47都道府県のJAやJA女性組織の活動をご紹介する「ふれあいJA広場」のWEB限定記事と、月刊誌『家の光』に掲載している「ローカルホッとナビ」の過去記事が閲覧できるサイトです。
皆さまのこれからの活動の参考にぜひご活用ください。

2024年3月までの「ふれあいJA広場」記事は、旧ふれあいJA広場をご覧ください。