JAリーダーインタビュー

福島県JAふくしま未来 代表理事組合長 三津間一八さん

  • 福島県 JAふくしま未来
  • 2026年2月

組合員を、
けっして裏切らない

震災で失われたものは、あまりに大きかった。
それでも懸命に、誠実に、産地復興に尽くしてきた。
志すのは、次世代への橋渡しと、人をたいせつにする組織づくりだ。

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津波の被害を目にして言葉を失う

─ご自宅のある二本松市は、歴史ある城下町として知られていますね。

 二本松城は室町時代に建てられ、慶応四年の戊辰戦争で大半が焼失しましたが、現在は二本松城跡として国の史跡に指定されています。わたしの家は城跡から六キロほど東にある中山間地の集落にあります。親父は市会議員を務めるかたわら、田んぼ、畑、養蚕、干し柿づくり、ウシの繁殖、コイの養殖などの複合経営をしていました。機械がない時代、田植えのときは木の定規を使って一本一本手で植えていました。除草剤がない代わり、コイを田んぼの中に放して雑草の発芽や生育を抑えるコイ農法というのがありました。親父は、春先に産まれた卵を孵化させ、稚魚を売っていたのです。秋の稲刈りが終わる頃、柿の収穫が始まります。近所の人が手伝いに来てくれて、みんなで皮をむいて干していました。

 子どもの頃のわたしの仕事は、二頭のウシに食べさせる草を刈ること。雨の日も雪の日も、毎日です。しんどかったですね。遊びたい盛りのやんちゃでしたから(笑)。中学からは、バスケットボールの部活に明け暮れました。練習は厳しいうえ、今では考えられませんが、当時の部活では、練習中に水を飲むことも許されなかった。まさに気合いと根性の時代です。高校までの六年間でそれがしみついてしまった。今でも、ここぞというときには自然と気合いが入ってしまうんですよ。

─本格的に農業を始めたのは、いつからですか。

 高校卒業後、近所の自動車会社に就職し、親父の農業も引き継ぎました。稲作と有機野菜の栽培が中心の営農に切り替え、平日は自動車整備、週末は農業という生活を二十年ほど続けました。三十九歳のとき、友人に誘われて住宅の基礎工事専門の建設会社を設立しました。ハウスメーカーからの受注で売り上げは順調に伸び、従業員も雇えるようになりました。
 ただ、契約メーカーは一社だけでしたから、事業拡大には限界がある。経営が苦しいときは役員報酬をゼロにし、従業員の賃金は満額払いました。いちばんたいせつにすべき人たちだからです。一方で、彼らには「会社のお金は自分のお金だと思ってほしい」とよく言いました。むだな出費をせず、本当に必要なところにお金を使えるよう、みんなが意識してくれたおかげで無借金経営でした。仕入れ先や外注先などへの支払いが遅れたこともありません。信用というのは、そういうところから生まれるのではないかと思います。

─東日本大震災のときも、会社を経営していたのですね。

 あの日は、会社の仕事で仙台にいました。午後二時四十六分、ゴォォーッという恐ろしい地鳴りとともに、ものすごい揺れを感じました。会社や家族が心配でしたが、電話がつながらない。すぐに高速道路に乗り、地元に戻りました。あともう少し遅かったら、通行止めになって帰宅できなかったでしょう。
 わが家は太平洋岸から六十キロほど内陸にあり、さいわい家も家族も無事でした。とはいえ、集落の中には全壊した家屋もあります。度重なる余震の恐怖に耐えながら、がれき撤去の手伝いや家の片づけに追われました。福島第一原発事故の後は、浜通り地域の住民がおおぜい避難してきました。その方たちが暖をとれるよう、みんなで灯油を持ち寄り、毎日炊き出しをしました。ただ、米はあってもおかずがない。コンビニやスーパーの棚は空っぽでしたから。
 発災から十日ほどたった頃、被災地の浜通りまで行きました。つい数日前までたくさんの人が暮らしていた町が、一瞬にして津波にのまれ、がれきの山と化している。ご遺体がある場所を示す杭が無数に立っていました。管内では、千八百人以上もの方が亡くなったのです。変わり果てた地域の姿を、涙なくしては見られませんでした。
 わたしは平成二十五年からJAの理事を務め、令和七年に現職に就任しました。震災から今年で十五年となりますが、当時、全国のJAから多大なご支援・ご協力を賜りましたこと、改めて心から御礼申しあげたいと思います。

まちがいのないものを届けてきた

─地域農業の復興を、どのように進めてきたのですか。

 モモ、夏秋キュウリ、水稲、そして百年の伝統を持つ「伊達のあんぽ柿」の四品目に重点を置いています。農家が生産に専念できるよう、夏秋キュウリは全地区に機械共撰施設を整備した結果、販売高日本一となりました。そうま地区には、大型のカントリーエレベーターを設置しました。パックご飯の工場開業も決まっています。その需要に応えるためにもDXを推進し、一部の田んぼで直播栽培を導入するなど、少ない人数でも収量を確保できるよう省力化を進めています。

 伊達のあんぽ柿の産地復興は、徹底的な除染から始まりました。一本一本の枝に高圧洗浄機を当てて表皮をむき、根元の土を入れ替えたのちカリを施す。たいへんな労力です。出荷再開まで五年以上かかりました。半生で柔らかく仕上がるのは、晩秋から初冬にかけての伊達地区の気候特性があってのこと。令和五年に地理的表示(GI)保護制度に登録され、いまは供給を上回るほどの需要があります。
 震災直後、農畜産物の販売高は震災前の約六割まで落ち込みましたが、現在は九割ほどまで戻っています。すべての農作物を全量検査し、まちがいのないものを消費者に届けてきました。風評被害はゼロにはならないでしょう。でも、このことだけは理解していただきたいのです。

─まだまだ正念場が続きますね。

 喫緊の課題は、次世代の担い手確保です。令和四年度から、新規就農者や後継者を育成する「のれん分け事業」を始めました。すでに四十人以上が新規就農しています。第一線でがんばっている高齢の農家が離農する前に、農地をしっかり引き継いでいく。この流れを、残りの任期で確立していくことがわたしの使命だと感じています。
 労働人口減少に伴い職員も少しずつ減っています。おたがいをカバーし合い生産性の高い仕事ができるよう、JAは待遇面を含め職員をだいじにしなければなりません。ここで働く人とその家族の生活を守ることができて初めて、組合員や利用者に手厚い支援や還元ができるのですから。一方で、職員には、組合員や利用者のたいせつなお金に支えられ、自分たちの給与が支払われていることを意識してほしいです。組合員目線で仕事をすること。組合員をけっして裏切らないこと。それをわたしはいつも職員に伝えています。ここのボタンを掛け違えないよう、おたがいを思いやり、信頼し合える組織をつくっていきたいと思います。

文=成見智子 写真=鈴木加寿彦 写真提供=JAふくしま未来

詳細情報

みつま・かずや/昭和三十一年生まれ、福島県二本松市出身。五十年安達東高校卒業。自動車会社勤務を経て、三津間建設を経営。二十五年JAみちのく安達理事就任。二十八年JAふくしま未来として合併後、理事、代表理事専務を経て令和七年に代表理事組合長に就任し、現在に至る。

JAふくしま未来

平成二十八年、四JAが合併し設立。福島市・伊達市・二本松市・本宮市をはじめとする福島県北地域と、相馬市・南相馬市など相馬地域が管内。特産物は水稲・果物・野菜・畜産のほか、地域ごとに多岐にわたる。

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