JAリーダーインタビュー

大阪府JA大阪中河内 代表理事組合長 畑中正史さん

  • 大阪府 JA大阪中河内
  • 2026年1月

組合員のために
もっと汗をかかねば

消防士として、命懸けで地域を守った。
土の上では仲間と共に汗を流し、挑戦を続けてきた。
次の一手、そのまた一手。なんでも、とことんやる。

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火災現場を前に勇敢に立ち向かう

─農産物直売所「畑のつづき」八尾店には、開店前から数十人の行列ができていました。盛況ですね。

 五つのJAが合併して誕生した経緯から、いまでもすべての旧JA管内に直売所があります。地元でとれた新鮮な野菜や果物を求めて朝一番に来店する人が多いんですよ。
 わたしの家は、八尾店から二キロほど離れた場所にあります。南北朝時代の武将、楠木正成に従った恩智左近満一が築いた恩智城の城下だった地域で、昔から家がたくさん建っていました。だから、わが家の畑は自宅から少し離れていて、両親はそこに通って米、エダマメ、若ゴボウ、ブドウ、軟弱野菜などを作っていました。幼い頃、よく親といっしょに市場にブドウを持って行った記憶がありますね。ブドウ棚は大型台風で倒れてしまったのですが、親父はそこに竹を植えました。「おまえが大きくなった頃に、タケノコがたくさん生えてくるぞ」と言ってね。その言葉どおり、わたしはいま、親父が残してくれた竹林から毎春タケノコを収穫し、直売所に出荷しています。
 農家の長男に生まれましたが、昔は農業が嫌いだったんです。子どもの頃はやんちゃでね、毎日学校から帰ると玄関にランドセルを置いてすぐ遊びに出ていましたから、家の手伝いはほとんどしませんでした。夏休みはカブトムシやクワガタ捕りに夢中でしたね。虫かごは使いません。捕ったら帽子に入れて、そのままかぶって帰ります。今の子どもは、そんなことしないでしょう。このまえ、小学生の孫といっしょに虫捕りに行ったのですが、わたしが帽子の中にカブトムシを入れたら悲鳴を上げていましたよ。「じいじ、やめてくれ!」って(笑)。

─大学卒業後は消防署に就職したそうですね。

 消防士は人の命に関わる仕事ですから、とても厳しい職場です。訓練は毎日三時間以上。業務の合間に自主トレをする隊員もいました。丈夫な体に生んでもらったおかげで、わたしも体力には自信があり、レスキュー隊にも選抜されました。若い頃は、猛烈な黒煙を上げる火災現場を前に、自然と気持ちが奮い立ったものです。
 経験を重ねると、責任感やプレッシャーも強く感じるようになります。それでも退職までずっと現場にいたいと思っていたので、三十代前半で総務課に異動になったときはショックでした。なぜ自分なのか、と不満を漏らしたわたしに、署長はこう言いました。「消防というのは、ただ火を消すだけやない。そのまわりに支える者がいて初めて成り立つ。そのうちのだれが欠けてもあかん。今のうちにそれを勉強しておけ」とね。
 事務方の業務に携わるうち、その意味がわかってきました。たとえば予防課では事業所などを訪問し、防火管理体制の指導をするのですが、防火設備の更新や新設はお金がかかるので、そう簡単にはいきません。十の条件があったとして、いきなりそれをすべて満たせと言っても難しいので、「まずは三つでええからやってくださいよ。それからまた次に進みましょう」というふうに、こちらも譲りながら根気よく向き合っていく。人とのやり取りや組織運営など、いろいろなことを勉強させてもらいました。

見返りを求めず次の一手を考える

─なにがきっかけで農業をやるようになったのですか。

 三十八歳のとき、親父が病気になりました。わたしが畑をやるしかないのですが、野菜の作り方がわからない。そこで消防署の仲間に声をかけたら、「いっしょにやりましょう」と言ってくれました。最初は失敗ばかりでしたが、種苗会社やまわりの農家に教えてもらいながら覚えました。知人や家族から「おいしい」と言われるようになったので直売所に出荷してみたら、売れたのです。負けん気の強いわたしは、そうなるとこんどは「売れる農業を考えなあかん」となる。どんな野菜が好まれるのかを研究し、いろいろな作物に挑戦しました。平成十六年に親父が他界してからは、兼業ながら本格的に農業に取り組み始めました。
 二十五年には特産の「八尾若ごぼう」、二十七年には「八尾えだまめ」の生産者部会を設立。二十八年にはJA成年部本部役員会の会長に就任しました。成年部活動の目的は、みずから担い手となって農業経営を守り、地産地消を通じて地域農業を振興することです。活動の一環として、営農経済部と協力し、耕作放棄地を借り上げて八尾えだまめを栽培しました。一般市民向けに収穫体験イベントを開催し、その模様をメディアに取材してもらう。大阪府内のシェフや野菜ソムリエを集め、八尾若ごぼうを使った料理教室を開催したこともあります。他にもたくさんありますが、こうした活動を積み重ねることで、販路拡大、農家の所得向上、都市農業の活性化をめざしてきました。

─活動の幅が大きく広がりましたね。

 じつは地元成年部会長に推されたとき、もっと適任者がいると思い、何度も固辞したんです。話し合いを経て結局引き受けたものの、JAの取り組みに物足りなさを感じました。組合員のために、もっと汗をかかなければならない。上に立つ者が率先して動かなければ、物事は変わらない。その一心で、いろいろな事業に挑戦してきました。つねに目標を持ち、それに向かっていきたいと思う性分なんです。一つが成功したら、また次の一手を考える。そのさいは、自分への見返りを求めないことが肝心です。気持ちが弱くなってしまいますから。
 署長まで勤めあげた消防署を令和五年に退職し、民間企業勤務を経て現職に就任しました。自分の人生がこうも変わるとは思っていませんでしたね。仲間のおかげです。仲間がいなければ農業をやることはなかったし、いまこの場所にもいなかったでしょう。

─組織運営において、たいせつにしていることはなんですか。

 元消防署長というと、怖いイメージもあるでしょうね(笑)。不安に思った職員もいると思います。わたし自身も、職員の仕事についてもっとよく知る必要がありますね。そのうえで、組織を俯瞰し、自分が経験してきたことをどう生かせるかだと思います。
 ある経営者が、「われわれの商売敵は同業者やない。世の中の情勢や変化や」と言いました。わたしもそれを痛感しています。だから、ときには「嫌われる勇気」も必要です。世の中の情勢・変化に合わせ、JAも変えるべきところは変えていかなければなりません。それが組合員にとって一時的に不便になることもあるでしょう。それでも、未来に向けたよりよい選択ができるよう適切に判断し、みなさんの理解を得られるように努めていきたいと思います。

文=成見智子 写真=松尾 純 写真提供=JA大阪中河内

詳細情報

はたなか・まさふみ/昭和三十八年生まれ、大阪府八尾市出身。六十年阪南大学卒業後、消防士として活躍。令和四年、柏原羽曳野藤井寺消防組合消防本部理事兼消防署長。その間、農家としてJAの成年部本部役員会会長、実行組合長会連絡協議会会長などを歴任。消防署退職後、令和六年から代表理事組合長に就任し、現在に至る。

JA大阪中河内

平成十四年大阪府東部の五JAが合併し設立。八尾市・柏原市・松原市・東大阪市の四市と大阪市東住吉区・平野区が管内。「八尾えだまめ」「八尾若ごぼう」「柏原ぶどう」、「なにわの伝統野菜」に認証された「難波葱」などが特産。

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