JAリーダーインタビュー
滋賀県JAレーク滋賀 代表理事理事長 木村義典さん
- 滋賀県 JAレーク滋賀
- 2026年3月

とことん学び、進化を志す
一番の武器は、たゆまぬ自己研鑽と長年培ってきた行動力。
ここぞというとき、迷わず勝負を懸ける。
親身に相談に乗り、信頼関係を築く
─がっしりとした、立派な体格ですね。
じつは、生まれたときからなんですよ(笑)。出生時の体重は四キロありました。地元の野洲郡中主町(当時)でその年に生まれた子どもの中で二番めに重かったそうで、健康優良児として表彰されました。
わが家は、琵琶湖に注ぐ野洲川と日野川という二本の一級河川に挟まれた穀倉地帯にあります。昔は「田船」といって、用水路に浮かべた船で米などを運んでいました。子どもの頃は、用水路でよくフナやハイジャコ(オイカワ)を釣っていましたね。たいていはネコに横取りされるのですが、たまにフナを確保できると、屋根の換気棟で一夜干しにして食べたりしました。田船に乗って川まで出ると、コイやナマズもとれます。友達の家に持っていくと、ナマズのあらいが大好きなお父さんに喜ばれましたね。
釣りは今でも大好きですし、球技も得意です。現在はもっぱらゴルフですが、中学・高校時代は部活の卓球に打ち込んでいました。高校三年生のとき出場した県大会の団体戦決勝のことはよく覚えています。わたしは六試合めに出場しました。二−三という劣勢で、あと一試合負けたら敗退という局面です。しかも相手は、個人戦で三年連続優勝という絶対的エース。ただ無心でぶつかっていきました。すると、自分でも信じられませんが、勝ったのです。三−三で迎えた最終戦、わが校はエースの登場です。ところが、みんなの期待を背負ったプレッシャーからか、彼は負けてしまい、優勝を逃しました。勝負というのは、最後までわからないものですね。

─京都府内の大学に進学し、卒業後は一般企業に就職したそうですね。
建設会社に就職し、最初は営業所で経理をしていました。ところが景気後退で営業所が閉鎖され、系列会社の娯楽施設二店舗の経営を任されました。これがなかなかの激務でしたね。店の営業時間内は店長ですが、事務所に戻ると経理や給与計算、人が足りなければ求人広告を出して面接をする。従業員の困り事の相談に乗ることもありました。
三年間、寝る間も惜しんで精いっぱい働きました。その後、昭和五十八年に地元の中主町農協(当時)の求人に応募しました。その頃、父が非常勤の理事を務めていたこともあり、農協の仕事に興味があったのです。結婚が決まって心機一転、という気持ちもありました。
─入組後はどんな仕事をしましたか。
前職で損害保険代理店業務の経験もあったので、即戦力扱いです。入組後すぐに信用共済部門の渉外担当となりました。二年めからはずっと、成績は湖南地区で一番でした。組合員や利用者のみなさんと密な関係を築けたのが大きかったですね。たとえば、事業融資を希望する企業の担当者の相談に乗るうち、従業員の給与振り込み口座を農協に作ってくれたりするんです。共済に加入した人からお金の相談を受け、年金受給の口座指定や家族のクレジットカード入会につながることもありました。
六年ほどたった頃、主任として購買課に異動しました。ただ、購買に関してはほとんど知識がありません。着任後、肥料や農薬、生産資材などについて一から必死に勉強しました。ビニールハウスなどは、自分で資材を購入し、組み立てを覚えました。なにを聞かれても答えられるようになると、自信を持って商品を勧められます。それまで約六千万円だった生産資材の販売高は、一億円まで伸びました。ガスの契約数も六割ほど増えたのですが、これも勉強のたまものかもしれません。液化石油ガス設備士など複数の国家資格を取り、戦略的に販売できるようになりました。
渉外でも購買でも、業務に必要だと思う資格はすべて取得しています。その後、JAおうみ冨士と合併し、営農課に異動したときは営農指導員一級の資格も取りました。同級生の職員より三年遅れて入組しているぶん、彼らの一・五倍はがんばらなければ、といつも思っていたのです。

「三方よし」の精神で組合員の負託に応える
─JAおうみ冨士の営農販売部長時代に開店した、ファーマーズマーケット「おうみんち」が盛況ですね。
二年かけて開店準備をしましたが、最初は反対する人も多くてね。当時は県内で同種の補助事業で成功した直売所はほとんどなく、「失敗したらだれが責任をとるんだ」と問われたこともあります。「わたしがとります!」と迷わず答えました。腹をくくって勝負しなければ勝てないと思ったのです。
市場出荷しているキク農家からは「直売所に出しても利益が小さい」、野菜や果樹の生産部会からは「手数料が高い」という声が上がりました。販売人件費や資材費、輸送費、市場手数料もかからないというメリットをわれわれは繰り返し説明し、交渉を重ねました。
なんとか地域の合意を得て平成二十年に守山店が開店すると、形勢は一気に逆転しました。特産品で目玉商品の「モリヤマメロン」は大人気となり、発売日前日の昼から列ができ始め、数百人が並ぶほどでした。手数料はけっして高くないことも農家に理解してもらえました。キクもよく売れますよ。安くて質がよいと評判になり、年末には入場制限をかけることもあります。

めざしたのは、近江商人の商売の極意である「三方よし」です。「売り手(生産者)よし」「買い手(消費者)よし」となれば、雇用も生まれ、地域全体が潤って「世間(社会)よし」となる。出荷会員の農家は五百戸を超え、開店翌年の総代会では「『おうみんち』を造ってくれてありがとう」と組合員から感謝されました。それがいちばんうれしかったですね。

─現在の課題はなんですか。
人員の確保が年々難しくなっています。職員に長く働いてもらえるよう、定年延長制度のほか、いったん退職しても同じ職場に戻れるジョブリターン制度や、新人職員を先輩や上司がサポートするメンター制度も導入しています。
一方で、支店統廃合や施設の集約も進めています。地域のインフラとして必要なものは残しつつ、人が減っても継続できるように赤字事業は整理して、組合員の負託に応えていく。いまは、そのぎりぎりのところでバランスをとっている感じですね。デジタルで効率化できる部分もあれば、アナログで対応すべき仕事もある。営農部門の人員は減らさず、DX推進や新技術の普及に努めながら、次世代の農家を支援していきます。いつまでも同じことをしていては生き残れない。地域社会も、JAを支援してくれる組合員の要望も変化してきています。そこに対応できるよう、われわれ自身が研鑽を積み、進化していかなかなければなりませんね。

文=成見智子 写真=松尾 純 写真提供=JAレーク滋賀
詳細情報
きむら・よしのり/昭和三十三年生まれ、滋賀県野洲市出身。五十五年京都学園大学卒業後、五十八年中主町農協入組。平成九年JAおうみ冨士に合併、二十五年常務理事、二十八年代表理事専務、令和元年代表理事理事長。三年JAレーク滋賀に合併、代表理事理事長に就任し、現在に至る。
JAレーク滋賀
令和三年に滋賀県内の8JAが合併し設立。大津・高島・草津・栗東・守山野洲の各地区統括本部からなる経営管理委員会制度を導入している。京都府、大阪府への通勤圏でもあり、水稲、野菜、果物、畜産、花卉など地域ごとに多様な特産物を生産。





