つなぐ人びと
父子相承のブルーベリーを能登の地で実らせていく
- 石川県 能登町(JAのと管内)
- 2024年10月
平 美由記さん
父子相承のブルーベリーを
能登の地で実らせていく
父が開いたブルーベリー畑で挑戦するなか発生した能登半島地震。
混沌と葛藤の日々を仲間に支えられて農園や産地を守ろうと前を向き進む女性がいます。
七月初旬、能登半島は奥能登と呼ばれる能登町へ。能登半島地震から半年、復旧工事は進行途中で、金沢市内から車で三時間はかかります。
「朝夕は、どうしても車が混むため、震災前の倍の時間はかかります。ずいぶん道は整備されてきましたけどねぇ」
そう話すのは、町の柳田地域でブルーベリーの栽培や加工品作りをする「ひらみゆき農園」代表の平美由記さん(46)です。山あいの百五十アールの圃場で、観光農園もしています。美由記さんがブルーベリーと出合ったのは、四人の子育てに奮闘していた三十代前半の頃。父の純夫さんが事故で亡くなったことがきっかけでした。
平成元年、水田の転作作物として自治体が導入したブルーベリー。柳田地域は「やなぎだブルーベリー生産組合」を創設し、純夫さんも栽培を始めます。おいしいブルーベリー作りに尽力する姿を見て育った美由記さん。父の遺した甘酸っぱく濃厚な味のブルーベリーをなくしたくないと、引き継ぐ決心をします。
「お客さんからの励ましの電話や翌年の注文も後押しになりました。未経験でしたが、やってみようって」
最初の二年間は、収穫するだけで手いっぱい。しかし味が薄くなったことに気づき、経験豊富な生産者を訪ねて、剪定や施肥など栽培法を改めて一から教わりました。
「こんなことも知らんのか?と叱りながらも、細かいところまで教えてくれて。『能登はやさしや土までも』の言葉どおり能登の人は優しい」
栽培に慣れた頃、美由記さんはブルーベリーを生業にしようと決意します。しかし、当時、ブルーベリーの出荷価格は一キロ二千円台と今よりも安かったため、出荷時期の三か月で販売するほかはアルバイトもしていました。そこで収入を上げたいと、オークションサイトに出品して調査。一キロ四千円でも購入者が見込めるとわかり、オンラインショップを立ち上げます。
次に、通年販売できる加工品開発に着手。ブルーベリーはシーズンが短く、収穫の三〜四割が規格外になるためです。さらに、能登町や金沢市の料理人や菓子職人との交流会に参加し、コラボ商品作りにも発展させます。
被災後の温かいサポートに勇気をもらって
仕事が軌道に乗ると、企業と生産者をつないだり、移住の相談を受けたりと、地域の盛り上げにも関わっていきます。令和四年には、観光農園をスタート。ブルーベリーと地域食材を使ったスイーツやドリンクを提供するキッチンカーも設置します。近隣のマルシェやイベントに出向き、農園や能登の味をPRしてきました。
そんな活動のやさきでした。能登半島地震が発生。農園は甚大な被害に遭います。
「山の圃場は、地滑りで百本ほど木が流されました。観光農園には、地割れがいくつも入ってね」
実家を改装した加工場は半壊状態。電気・水道は止まり、加工用ブルーベリーや商品の保管が難しい状況でした。今年はもう無理かなと諦めたとき、金沢市の仕事仲間から連絡が。「冷凍材料を預かり、ショップ代行も引き受けてくれるとの申し出でした。ありがたくて……」と、美由記さんは涙声で振り返ります。
周囲の温かいサポートに勇気をもらい、農園を守るためのクラウドファンディングにも挑戦します。多くの人に思いが届き、目標金額を超えての達成。そこで資金の一部を産地のために使います。
「みんなでがんばりたい! との願いを込めて、九十人の生産組合メンバーに剪定ばさみを贈りました」
メンバーからの喜びの言葉は、美由記さんにさらなる一歩をもたらします。今年は休園を決めていた観光農園を「地元の人が楽しめる場にしてほしい」との周囲の声もあり、六月末に開園したのです。やるならにぎやかにと、二周年イベントとして開催。飲食店の仲間にも協力してもらい、農園に屋台を出して盛り上げました。
「お客さんも出店者も、いっしょに楽しむ場でした。諦めずに開園してよかったです」
今年、ひらみゆき農園は十五年めを迎えました。生産者が一丸となりブランド化を進めたこともあり、ブルーベリーの出荷価格は、一キロ五千円台となり、生業としての未来像が描けるようになってきました。
「地震を契機に、東北や関西にも販路が広がりました。能登町を全国へ発信して、産地を次世代へつなげていきたいです」
能登の人は優しいだけでなく力強さがある、と話す美由記さん。復旧まで長い時間がかかろうとも、受け継いだブルーベリーを〝能登町が誇る宝〟へと育てていきます。
文=森 ゆきこ 写真=中西 優